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叩くことは、しつけではない

更新日:2021年7月9日

↓読売新聞の記事



 先日、こんな読売新聞の記事「東京都教育委員会が中高生から無料通信アプリ「LINE」で受け付けているSNS相談で、今年度上半期、学業不振、家族関係を巡るものが、いずれも前年同期比で50%以上増加」タイムライン載せている人がいて、コメントに“イライラした親に叩かれた経験があるので、虐待というのは違うよねぇー”と。


 叩くことは、しつけではありません。

親に叩かれて育ったからといって、それが正しいことではありません。

日本は6〜7割の親が体罰を子供に与えた事があるという調査結果。


 なぜ、今回この虐待についてブログを書こうと思ったか?

 私も16年間酒乱の父親からの暴力と母親のネグレクトを受けて育った、アダルト・チルドレンだからです。

でも、親のせいにして生きてはきませんでした。

 子供の頃から、どう言う家庭環境で育っていても、私は私の人生を生きる。親に台無しにされてたまるもんかと思ってました。

 だから、学校にはきちんと通い勉強し、卒業し、さっさと自立しました。私は心理学を学んで両親に対する、怒り、恨み、憎しみは、と〜うの昔になくなっています。


 企業でカウンセリングしていた時は、虐待、親の過干渉、放任、等のせいでリストカット、悪夢を見たり、不眠、パニック障害、精神疾患を抱えている人たちが沢山いました。10年、20年精神安定剤を服用し、30代後半になっても、親に虐待されたから、、、親に愛されなかった、、、と嘆き悲しんいる人たちをカウンセリングしてました。

 引きこもりでまともに働く事も出来なかったり、職場、異性と人間関係を築く事も出来ないでいる人たちを見ていると、心理学を学んだ時にテキストに書かれていた通りの事象を目の当たりにして、素直に「わぁ〜本当にこうなってしまうんだな、、、」と思いました。

この人たちが、これからの日本、私達が生かされている地球を担っていく、親になり、その子供たちはどうなるのだろうか?


 私は皆さんに、どう言う事が虐待になるのか?を正しく理解していただき、どう子供とコミュニケーションを取ればいいのか?自分の在り方はどうすればいいのか?を知って頂きたいと思います。


<法律>

世界56ヵ国が「法的体罰の全面禁止」

1979年に世で初めて子どもに対する体罰を法律で禁止したスウェーデン

日本は、旧児童虐待防止法 が1933年交付。

1947年 児童福祉法制定。

2000年 深刻化する児童虐待の予防、および対応方策とするために制定。

2019年 6月19日、体罰の禁止を明文化した改正法が、改正児童福祉法と合わせて成立。2020年4月から施行。(Wikipediaより)


 私は日本、アメリカ、カナダと暮らしてきたので、他の国と比較してみました。


カナダは1894年にカソリックの司祭が中心となった活動として、100年以上の活動の歴史がある。

カナダの児童虐待防止について文部省科学省サイト↓



アメリカでの児童虐待防止について

↓文部科学省



 アメリカは、日本より厳しい児童虐待に対する認識

児童虐待には、身体的虐待、心理的虐待、性的虐待、ネグレクト(育児放棄)などがあります。

 幼稚園児の親が子どもと一緒にシャワーを浴びるといった、日本では「虐待」とみなされないようなことが虐待になるので注意が必要です。なかでも特に気を付けたいのが児童遺棄です。短時間(5~10分)でも、家や車の中に子どもを残してその場を離れることは禁止されています。また、火事やガス漏れ、強盗などの緊急事態に的確な行動ができる年齢になるまでは、(一般的には13歳以下)の子ども一人で留守番をさせてはいけません。

子どもが英語を話せない場合は、成長度合いにかかわらず、親の保護が必要です。英語が話せない子どもだけにしておくことは、留守番ができない子どもを放置したと見なされます。

 アメリカでは子どもに体罰を与えることはしつけ/教育ではなく、暴力とみなされ、虐待行為として通報されます。人前で怒鳴ったり、子どもの前で親同士がけんかをしたりすることも心理的な威圧として虐待に含まれます。


 親は子どものためと思っていても、過剰な教育や厳しいしつけによって子どもの心身の発達が阻害されるのであれば、それは虐待です。


心理的虐待」についての細かい規定が見当たりません。実際には、言葉や態度による暴力=心理的虐待は、体罰以上に子どもの脳や精神の発達に深刻な影響を与えます。


「本当にダメだね!」「お前はブスだ」「お前はバカだね!」「あんたなんか産まなければ良かった」「どっか行っちゃえ!」「ゴミッ!」など、親から人格を否定されたり、自尊心を傷つけられる言葉を定期的にかけられて育った子どもは、聴覚に障害が生じる他、知能や理解力の発達にも悪影響が生じることが報告されています。

また威圧的な言葉で脅したり、拒否的な態度をとったり、きょうだいを差別したり、子どもが家庭内暴力を目撃することも心理的虐待であり、子どもの心に深刻な後遺症を残す原因になります。


世界一過保護な国アメリカでは、日本の親は全員ネグレクト↓



何が虐待になるのか?の定義を、理解して頂けましたでしょうか?


 では、このコロナ渦の状況下で、学校や幼稚園、保育園に通えない子供たちと一日中家で生活し、家事をこなし、家で在宅勤務をされているお母さん、お父さんはイライラしないように、以下の事を考えてみてください。


1、自分の受容範囲を再確認しましょう。

「自分をどれだけ受容するか」ということと、「他人をどれだけ受容するか」との間には、直接的な関係があり、自分自身を一人の個人として受け入れる人は、他人に対しても同じように感じる可能性が高く、自分自身を許容出来ない事が多い人は、他人についても許容しにくい。


他人がどう自分の子供を評価するかで、自分の満足が大きく左右されてませんか?


自分が悪い親に見えるから、子供の行動を制限してませんか?


自分の子供はこうあるべきという枠から外れようとすると、自分がそれを受容出来ないので、腹を立てていませんか?


他人の目に、自分が良い親だと見える必要があると思っていませんか?


子供を通して、自分の価値や自信と自尊心を満たそうとするのは、やめましょう。


2、子供は親の「所有物」ではないので、「離別感」を持ちましょう。

*「離別感」・・・相手は、自分とは全く違う一人の個人と考えること


受容度の低い親は、子供の人生のプログラムを作ってやろうとするので、少しでも親の作った鐘型から外れた行動をすると、それを受容しない気持ちになりやすい。


「親は、自分が一番いいと思うやり方で、“自分の”子供をよくしてやる権利があるんじゃありませんか?」と、受容度の低い親は言います。


親の考えるいいやり方が、子供に合うとは限りません。なぜなら、親とは違う別の人間だから。


子供には“間違う権利”、“自分の人生を選ぶ権利”、自分が「なれる能力のあるものになる権利」を持っていて、これらは子供の「絶対的権利」であり、誰も取り上げることは出来ない。


子供に、自分独自の人生の「プログラム」を喜んでつくらせましょう。


3、子供が、ただ“彼自身になる”“彼女自身になる”ことだけを望みましょう。


 子供が好きだと口では言っていても、行動では、明らかにある特定の種類の子供だけ好きであることも示す親がいます。


 運動能力に価値を置く父親は、運動に何の関心も才能もない息子、悲劇的にも、拒絶することが多いのです。


 容姿の美しさに価値を求める母親は、社会的に考えられている女性美に合わない娘を拒絶することがあります。


 音楽で自分の人生が豊かになったと信じる親は、音楽的才能のない子供に深い失望を示します。


 学術的、知的能力に価値を置く親は、この特殊なタイプの知性を持たない子供に、取り返しのつかない心の傷を与えるのです。


 この世には、数限りない種類の子供が生まれ、数限りない多様な人生が可能であることを認識すれば、こう言う親の非受容の行動も少なくなるのではないでしょうか?


自然の美しさ、生の不思議は、生の形態の莫大な多様性にあると思います。


子供が、ただ“彼自身になる”“彼女自身になる”ことだけを望みましょう。こう言う態度で臨めば、当然、子供一人一人に対してもっと受容する気持ちを持つようになるでしょうし、子供が独自の子供自身になっていくのを見る喜びと、興奮を味わうことになるでしょう。


4、自分の価値観を見直しましょう。


親は、当然子供より年をとっているし、経験もあるが、その経験や知識があったために、真理への道が開け、善悪の判断を常に正しく行うだけの英知を獲得したとは、はっきり言えません。


確かに「経験は良い教師」ではあるが、必ずしも何が正しいかをいつも教えてくれはしない。知識は無知より良いが、知識人は必ずしも賢人ではありません。


親が自分の価値観や信条は正しい、信じこめばこむほど、子供に(そしてふつう他人にも)それを押し付ける傾向があります。

そう言う親は、自分の価値観や信条から外れていると思える行動を受け入れにくいのです。


親の価値観や信条にもっと柔軟性があり、他の考えや文化を受け入れやすく、これかあれかの2者選択的でない場合には、自分の価値観や信条から外れているような行動もよく受容する傾向があります。


 子供に青写真を押し付けたり、あらかじめ考えた鐘型にはめ込もうとすることも少ないのです。

 こういう親は、自分は価値を置いていなくとも、息子が長髪にし、ビーズを身に付けて飾るのを受け入れる親であります。さらに、ミニスカート、変わりつつある性行動のパターン、自分とは違うスタイルの洋服、反体制デモ、学校当局に対する抵抗、他人種、多文化の子供との交際などを受容出来やすい親です。

 こういう親は、変化は避けられないものであり、「生は後戻りせず、昨日のままに留まらない」し、ある世代の信条と価値観は必ずしも他の世代のそれと同じではなく、社会には改善が必要であり、なかには強く反対すべきものも存在し、不合理で抑圧的な権威には強い抵抗を受けて当然のものがあることを、どうにか受け入れる人たちです。こういう態度はの親は、若者の行動の多くを、理解出来る、真に受容出来ると考えます。


 ご夫婦での価値観を話し合う、友達はどんな価値観で子育てしているのかを聞いてみる。自分の価値観の幅を広げるには、多種多様な人達と話して、その中から自分で選ぶと良いでしょう。


5、夫婦の関係を「第一義的」と考えましょう。


 母親に多い傾向であるが、夫婦関係より親子関係に第一義的関係を求めると、夫婦関係からもたらされるべき満足と喜びを、子供に求めようとしてしまうと、子供の行動の持つ意味が大きくなりすぎてしいます。

 子供がいかに行動するかが決定的重要性を持ってしまうと、こういう親は、常に子供から目を離さず、子供は指示、指導、監視、評価、判断を与えられなければならないと考えるので、子供が過ちを犯し、人生でつまずくの許せなくなります。子供が失敗の経験をしないように保護し、あらゆる危険から守らなければならないと考え始めます。

 良い親業者は、子供ともっと気楽な関係を持ちます。夫婦の関係を第一義的と考えているので、子供はその人生の重要な位置を占めるが、第二義的に近いので、、、はっきりと第二義的では無いかもしれないけれど、少なくとも結婚相手の占める位置より重要では無いのです。こういう親は、子供にもっと自由を独立を許し、子供と一緒にいるの楽しむが、それは限られた時間だけで、夫婦2人だけで時間を過ごしたいと考えます。彼らは投資は子供だけに向けられるのではなく、結婚に向けられるのです。

 したがって、子供がいかに行動するか、子供がどれだけのことを成し遂げるかは、彼らにとってそれほど決定的な重要性は持たないのです。子供には子供自身の人生と生活があるのだから、自分を形成し、確立する自由を与えられべきだと考えています。こういう親は、子供を叱る回数が少なく、子供の活動を厳しく監視することもありません。子供が親を必要とするときには存在するが、子供が求めない時に、子供の生活に介入したり、子供を押し付けたりする欲求を感じないのです。 しかし、子供を無視すると言うのでは無いのです。当然子供に関心を持っているが、心配はしていないのです。関心を抱いてはいるが、息苦しく窒息させるのでは無いのです。「子供は子供」というのが彼らの態度であり、子供が「子供である」ことを受容しています。


夫婦でデートしたり、夫婦で過ごす時間を増やすことをしてみましょう。


 日本は、子供が出来ると預けてデートに行くなんて、とんでもないという風潮がありますが、私は夫婦水入らずの時間が必要なのを知っていたので、よく友達の子供や妹の子供に泊まりで子守をしてました。


幼い子どもであっても「一人の独立した人格として尊重する」という基本を忘れてはいけません。


子供を変えようとするのではなく、まずは自分の在り方を見直して見ましょう。


トマス・ゴートン著Thomas Gordonの「親業」Parent Effectiveness Training という本に基づいて書きました。

ぜひ、読んでみてください。


次回のブログは「虐待が子供に与える影響について

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